(16)カラマツとの和解
TV取材でドイツの「黒い森」を訪ねる。森林官と研究所職員と。
日本のカラマツを植えている、とのことだった。
樹木や森に関する本を手当たり次第購入し、50冊ほども積まれた書物の山に片端から挑んでいる。今や書籍はネットで調べて注文できるから、田舎暮らしにはとても便利だが、書店を歩く楽しみとはやや縁遠くなっている。
というわけで日々関連図書のページをめくっているのだが、しかしなにしろ基礎素養というものに欠けているからこれが中々身につかない。それはそうだろう、体験をともなう深い知識を身につけるにはやはり持続的な時間が必要なはずだし、若い頃の柔軟な頭脳であればまだしも、人の名前すら出てこない今日この頃にあっては、急ごしらえの知識の追加は相当にむずかしいのである。覚えたはずの新情報も少しするとどこかへいってしまい、得意げに人に話している途中で突然おぼろげになり、うろたえて視線が宙を舞うようなこともある。
そんなおぼつかないお勉強読書のまっただ中にあるのだが、ずっと接していると、著者の皆さまそれぞれの個性や知性や筆力などへの、読者側からの評価というものも自ずと生まれてくる。目下、最も敬意を抱くのは、時代的にはひと昔前になるのだが、京大の四手井綱英さんの一連の著作だ。「森林生態学」という専門の立場から、一般向けの本もたくさん著している人物で、学ぶことが多い。
四手井さんは若い頃から山や森が好きで、大学卒業後は営林署に勤務し、やがて母校の京大の教授になった人だ。森を愛するひたむきな情熱が、当時の日本の林業行政への痛烈な批判へと結びついた。
四手井さんによれば、明治以来の日本の林業はドイツ林学の影響を受けつつ、紆余曲折した歴史を持つのだが、特に戦後の暴走はほとんど森林破壊とも言うべきものだった。復興に必要な木材を求めて大規模な伐採事業が進み、その後のいわゆる「拡大造林」は奥地の天然林をやみくもに人工林に置きかえていく。各地に残っていた貴重な天然林は次々に破壊されてしまい、どこも一律的な針葉樹の植林が行われた。一部の林学者や識者による反対を押し切って林野庁はこの乱暴な林政を進め、日本の森林は大きく姿を変えていった。
森林にはもちろん木材供給としての資源的役割があるわけだが、同時に環境を保全する大切な使命があり、その均衡を長期的に考える必要がある。四手井さんの著作には、自然林の循環的な営みの解説と、同時に制約的かつ持続的な林業のあり方が示されている。
「拡大造林」時代を経て日本の林業はいま、その名残を引きずりつつ混迷している。天然林を大規模に伐採して針葉樹の植林をしたのだが、その後安くて優秀な輸入材が市場に入ることによって国内の林業は一気に斜陽化することになった。植林後の手当がなされずに人工林は荒れていった。
一方、様々な理由から林野庁の国有林経営は大きな赤字をかかえることになったのだが、後に特別会計から一般会計にシフトして再編成された。「営林署」は「森林管理局」へと変身したが、それでもなお1兆円もの債務を負わされている。この返済のために今でも国有林は伐採と木材の販売を続けなくてはならない。環境保護を口にしつつも、国有林は伐採され続けているのである。
そんな経緯をたどったが、おりしも輸入材の高騰と供給の不足から「ウッドショック」なる現象が起き、改めて国産材に注目が集まっているのが現在の状況だ。これまでは民有林の伐採は経費が上回ってしまって赤字になるものだったが、状況が一変して、今や伐採業者は森林所有者を回って伐採を勧めている。
かてて加えて「CO2削減」の国際的な動向があり、森林の役割が別方面から注目されるようになった。それ自体は結構なことだと思うが、近頃流行の「ゼロカーボン」のかけ声は、なぜか森林を伐採して「再造林」することに向かっていて、高樹齢の樹木を伐採して特定の針葉樹を植林することが提唱されている。若い木は高齢の木に較べてより多くのCO2を吸収する、というのが根拠だが、これには異論もあり、そもそも森林をこの側面からのみ評価することに疑問が残る。伐採圧力は強まるばかりで、結局のところ、「拡大造林」の森林破壊と林業の混迷は相変わらず続いている、というのが現状ではないかと思う。四手井先生が存命であれば、この現状をどう批評するか伺ってみたいものだ。
ぼくはこれまでずっと、カラマツに複雑な思いを抱いてきた。樹木としてのカラマツを嫌う、ということではないのだが、日本の山林を破壊した林政の象徴としてカラマツがあるように思えたし、そもそも北海道には自生しない移入種だということもあった。極端な言い方をすると、「日本」の北海道侵略のシンボルとしてのカラマツ、のように感じて反感を持ってきた。
話は飛躍するが、「ラジアータパイン」という北米原産の松があって、成育が極端に早く、優秀な材ではないがまずまず使えるというので、世界の各地で植林されている。ニュージーランドというのは、イギリス人がもとの自然を思いきり改装して作った国だが、ラジアータパインの生産が盛んだ。中心都市オークランドに「ワンツリーヒル」という丘があり、もともとあった原産種の木を倒して、イギリス人がここにラジアータパインの木を植えた。2000年前後だったと思うが、これに抗議するマオリの人たちが、丘にあったパインの木をチェーンソーで倒す、という事件があった。ちょうど現地に滞在している時で、新聞で大きく報道されたのを目にした。
イギリス人にとってニュージーランドは植民地であり、自国に都合のいいように経営するのであって、そこにある自然への配慮は二義的なものだ。同じように日本国にとっての北海道は植民地のようなものだったから、当然木材資源はためらいなく収奪しただろう。北海道の開拓は森林の伐採と同義であったのだとも言える。戦後の拡大造林は日本全国で展開するものだったが、各地に残った美林の破壊にはいささかの躊躇もあったはずだ。しかし、北海道は今も昔も資源供給の土地であることに変わりはない。漁業も農業も、そして林業も、北海道はひたすら日本に資源を供給するのである。北海道の大地にあった原生林に思いを馳せるある北大教授によると、明治以降の林業は「略奪林業」だったいう。
ちょっと話を変えると、四手井さんの他でよく読んでいるのが西口親雄という人の著作だ。四手井さんから少し後、ぼくたちより少し上の人で、専門は森林昆虫学だそうだ。大学を定年後に森林関連の著作をかなりたくさん著している。特に東北のブナに関連してものが多いが、われわれ素人向けの平易な解説が多くて楽しく読める。ブナやブナ林に限らず、樹木そのものをめぐる様々なエピソードを紹介してくれるのでありがたい。専門が森の昆虫だから、虫好きなぼくとしては大いに魅力的な著述家なのである。
ではこの西口さん、東北のブナ林破壊についてはどういう立場なのか、というと、もちろん国の悪政には反対的な立場には立つ。木や森を愛する人なら誰でもその破壊については憤りを覚えて当然である。ただ、ぼくが読む限り西口さんの抗議はかなり微温的な印象で、四手井さんのような峻烈さを感じられない。個人の性格もあるのかも知れない。
その西口さんが、ある著作で北海道のカラマツ林について触れている。北海道の東、根釧原野方面を訪ねた時の記録で、ここに林野庁の肝いりで一大植林がされた。1万ヘクタールという面積に、大規模な費用を注いだ「パイロット・フォレスト」なる事業で、これが全部カラマツの植林なのである。一帯は、もともとは原生林におおわれていたはずだが、大正時代以降の入植による山火事などですっかり原野化してしまった。寒冷な環境の厳しさから入植者をはねのけてきた荒野である。
西口さんはこの一大植林地を訪ねた印象として、事業の成功を賞賛しつつその大きな理由がカラマツの持つ性格によるものとしている。いわく、カラマツは厳しい土地条件や気候に耐える強健さを備えている、成育が極めて早い、苗木の生産性が高い、というような利点だ。カラマツという木があったが故に一帯の原野は再び森林として復活できた、というのである。
それはその通りだと思うし、一旦山林化して後に他の本来あった樹種に移行させるという作戦もあるとは思う。しかし、それにしても1万ヘクタールのカラマツ林である。技術開発が進んだ現代ならともかく、用途が極めて限定されていたカラマツを一体どう使うつもりだったのだろう。林野庁のホームページを見ても、ただ大規模植林に成功したことばかりが案内されている。
根釧原野の近く、十勝地方に九州大学の演習林があって、知り合いの人がここで働いているのだが、見学させてもらおうと思って連絡したところ、「ウチはカラマツばかりで、来てもつまらないよ」と断られてしまった。まさかカラマツだけ、ということもないのだろうが、富良野の東大演習林とは相当違うらしい。
というわけで根釧原野のカラマツ賞賛には同意はできないのだが、たくさんの著書を残してくれた西口さんは尊敬できるし、これからも一連の著作は読ませてもらうつもりだ。
カラマツを語るのに、ここまで林野行政への反発に終始しているが、「森林を破壊した拡大造林の象徴としてのカラマツ」という視点からどうしても離れられないのである。
北海道はいつの間にかカラマツの国になってしまった。道内を移動しながらあたりの風景を眺めれば、そこには必ずカラマツの林があって、それが外来種であることを忘れてしまうぐらいだ。北海道の風景を構成する樹木、という視点から見れば、シラカバとカラマツは両雄というべきかもしれない。北海道の大きな風景にはどちらもよく似あっているし、旅行者の目には軽快で爽やかに写るに違いない。実際、春の新緑も秋の紅葉もどちらもそれなりに見事である。前にシラカバを「団体の木」だと記したが、カラマツもまた単独ではなく団体で整列して風景を作っている。自生する木ではなく植林されてそこにあるのだから、整列しているのは当然といえる。十勝地方の防風林などは、地域の代表的な風景になっている。
さて、ここで困ったのは、このカラマツ林が美しい、という問題である。もちろん悪口はいっぱい言える。用材としてまるで役に立たない、だとか、山林土壌を悪化させる一方ではないか、とか、台風が来ると団体で倒れるではないか、とか。しかし、それでもカラマツはそこにあり、独特の風情を醸しつつ北海道の大地をおおうのである。
許しがたい歴史を負うカラマツであるが、しかし風景の中で時として大変美しく存在もする。ひとりで勝手に煩悶して笑われるかもしれないが、この背反するふたつの性格を持つカラマツと、ぼくは決着をつけなくてはならないのである。
よし、こうしよう。まずぼく自身は自らカラマツを植えることをしない。同時に、これまでやってきたように、所有地内にあるカラマツは伐採して広葉樹に置き換える。その上で、北海道にあまねく存在するカラマツは黙認し、新緑や紅葉の美しさは風景の一部として認めることにしよう。あるいはまた、樹木として、木材としてのカラマツのいい部分を探し、あえて肯定するべきかもしれない。
昨年、8haほどのカラマツ林を伐採してミズナラを植えた。
丸太の山はパルプ用だそうだ。
・・・・・さて、カラマツは本州中部地方に自生する樹種だ。ぼくの認識だと「信州の木」ということになるが、長野以外でも点々と自生地があるらしい。火山灰地に自生するというが、荒地や高地、寒冷地など、条件の悪い所でも育つ強健な樹種なので、長野では人の手で古くから植えられてきた。明治の頃に佐久地方で自生種からの産業的な育苗に成功して以来、全国へ苗を出荷するようになり、カラマツ育苗が一大産業になったという。
北原白秋の有名な詩『落葉松』は大正時代の作で、軽井沢あたりを詠んだそうだが、この頃には明治の頃の荒涼とした風景が一変して、新しい「高原風景」ができあがっていたらしい。
「からまつはさびしかりけり・・・・たびゆくはさびしかりけり・・・・」
堀辰雄のシラカバとサナトリウムといい、北原白秋のさびしきカラマツといい、軽井沢はハイカラな皆さんの叙情の里のようだ。
風景としてのカラマツは、秋の紅葉が大きな特徴だが、日本で秋に落葉する針葉樹はこのカラマツだけだ。毎年葉を落とす落葉樹は基本的に広葉樹であり、針葉樹は一般に葉を数年は維持しつつ少しずつ交代する。カラマツの一斉紅葉と一斉落葉はかなり特異な個性というべきだろう。中国の絵画にあるマツに似ているというので「唐松」が名前の語源といい、文字にすると白秋の詩のタイトルのように「落葉松」と書く。
大変美しいカラマツの紅葉だが、落ちた葉は広葉樹の葉と違って簡単に分解しない。林を歩いてみると分かるが、年々上から落ちてくる葉が積み重なって林床はふかふかしている。この落葉層によって他の植物は育ちにくいのだが、北海道では強靱なササの類に覆われることが多い。エゾシカの増殖は、カラマツ植林により食料のササ原が広がっているからだ、という説がある。また、カラマツ落葉によって山林の土壌は酸性化して弊害が起こる、という説もある。地元の業者に言わせると、カラマツ植林は2度目になるとぐっと成長が遅くなる、とのことだ。森林土壌にとっての針葉樹植林、とりわけカラマツ植林は決していいものではないようだ。
山林には地下に「菌根」のネットワークがあり、様々な菌が木々の根と共生をしている。菌根は土壌の微量栄養素を吸収して木の根に渡し、見返りとして木から糖類をもらう、という相利共生だ。この菌根菌が繁殖のために地上に顔を出すのが「子実体」、つまりキノコというわけだ。
カラマツ林には「ハナイグチ」という菌のネットワークがあり、これが毎年秋になるとキノコを地上に出す。このハナイグチを一般に「ラクヨウ」と呼び、北海道で最も人気のあるキノコになっている。クセのない味のキノコだし、他の毒キノコとは識別が容易だということもあって、秋になると人々はあちこちのカラマツ林を探索する。
北海道の人はこのラクヨウキノコのことがあって、一般にカラマツ林に好感を持っているようだ。以前所有していたホテルには大規模なカラマツ林があったが、秋になるとキノコ狩りの人たちがたくさん来るので困った。私道に車を停めたり、ゴミを散らかしたり、北海道的におおらかな秋の行事をくり広げるのである。
春の新緑、秋の紅葉風景の他に、ぼくがカラマツ林を正面から評価することが一点ある。それはオオタカに営巣木を提供する、ということだ。内地ではオオタカは主としてアカマツに営巣するらしいが、北海道では圧倒的にカラマツに巣を作る。両樹種に共通するのは林内が明るい、ということだろう。エゾマツ、トドマツの林に較べて枝や葉が少ないからだと思うが、カラマツ林は見通しがいいのだ。オオタカの主食は鳥類だが、木々の間を獲物を追って鋭く飛行する。
裏山の一角にあるカラマツ林では毎年オオタカが営巣して子供を育てる。この数年は巣そのものを確認していないが、8月に入る頃になると幼鳥とおぼしき個体と数羽で飛翔を始める。日々空を見上げてオオタカに挨拶できるのは、カラマツ林のおかげなのである。
最後に、カラマツをめぐる「新技術」について触れておきたい。
まず用材としてのカラマツだが、樹脂が多く、木理が通直でなく、製材しても狂いの多いのがカラマツ材である。だから建築材としては使われず、用途は鉱山の坑道を支える丸太(坑木)、あるいは電柱や足場用の丸太ぐらいの限られたものだった。腐りにくいという特徴があったからだろう。北海道でのカラマツ大植林はこういった限定的な用途に供されたわけだが、炭鉱の時代が終わると需要はほとんどなくなってしまった。パルプ材に使えればまだ良かったのだが、樹脂が多いと製紙にも不適当であるらしい。
荒れ地の緑化、というのがカラマツ植林の唯一の目的で、しかし生産された木材は行き所がない、という状態が長く続いてきた。拡大造林で大規模な伐採と大規模な植林はされたが、需要がないので植林地は手入れがないまま放置され、いわゆる「そうめん立ち」というような情けない姿をさらすのであった。秋のきれいな紅葉風景も、近寄るとがっかりする林の姿だったりする。業者に伐採を依頼しても、経費の方が高くつく、というのがごく最近までの実態だったのである。
ところが、この10年ぐらいで事情が大きく変化した。国際的な木材需要の変化や、為替の問題もあって、外国材が相対的に高額になっており、改めて国産材が注目される、というのが、ひとつ目の要素。もうひとつはカラマツ材を改良する技術が開発された、ということがある。材の乾燥技術が進化したことにより、狂いや割れを回避することが可能になり、建築の構造材に使うことも夢ではなくなったらしい。新しい乾燥技術を使った材を集成材にすることで、用途が広がったのだそうだ。あるいは、構造用合板としての道も開けてきている。
木材中の樹脂をコントロールできるようになったので、製紙パルプとしても需要が広がった、とも聞く。昨年、隣町に所有していたカラマツ林を伐採してミズナラの植林をしたのだが、伐採業者はカラマツ丸太を直径によって二区分していた。太い材は用材用、細い材はパルプ用、ということだった。「どちらも値段には差がないんだよね」とのことだった。
いずれにしても、カラマツは以前と違って値段のつく木材になったのである。
もうひとつ、カラマツをめぐって気になる動向がある。地球温暖化への対抗策として近頃にぎやかなのが、「ゼロカーボン」、「カーボンニュートラル」なる政策で、いまやCO2削減は国家的目標とされている。それはそれで結構なことだが、削減目標の一定の割合を森林による吸収が担うことになっている。林業の基本計画として公式なもので、その具体策は「森林の適正な管理」とか「森林資源の持続的利用」などとされている。簡単に言うと、拡大造林時代に植えられ、放置されている針葉樹林を伐採して再植林しよう、ということのようだ。
これがどうしてCO2削減になるかというと、前に述べたように、樹齢の多い木よりも若い木の方が炭素の吸収率が高い、という理屈だ。これには反論もあって、必ずしも高樹齢の木の吸収率は少なくないし、伐採後の植林と成長までの期間のマイナスを無視している、という意見もある。(野生生物基金のホームページなど)
こういった批判に対抗してかどうか、近頃強調されているのが、「エリートツリー」あるいは「精英樹」なる新しい樹種の出現である。カラマツについていうと、カラマツとグイマツから作られた「クリーンラーチ」なる新種が登場している。従来のカラマツに較べて成長が早く、通直性に優れ、強度も高く、ネズミ害が少ない、のだそうだ。その上、炭素固定能力に優れていて、従来のカラマツよりも7〜20%も多くCO2を吸収する、まさに「スーパーカラマツ」なのだ、という。
本当にそうなのだろうか。樹種を改良して炭素吸収率を多くする、というのはどういう生理学的メカニズムなのだろう。あるいは、単純に品種改良によって成長が早くなったから、そういう計算が成り立つのだろうか。2割も多く炭素吸収をする、という説明がぼくにはよく理解できない。
国が提唱する「伐って、使って、植える」という「資源の循環」論は、いまネットを含めあちこちに広がっている。しかし、それらを読む限り、なんだかすごく安直で危険な論に思える。これまでの人工林に対する再植林、という範囲ならまだしも、近隣を見渡すだけでも、広葉樹林の伐採と針葉樹の植林どんどん進んでいる。日本の山林の4割が人工林といわれているが、この割合はどんどん進んでいるのではないだろうか。
そもそも、山林を資源としてのみ捉え、「木の畑」などと表すのはあまりに乱暴ではないだろうか。脱炭素にかこつけて林業に再び政治の力が加わると、かつての拡大造林のような自然破壊が再来しそうで恐ろしい。再度言うが、山林には環境保全、生物多様性の保全、土砂流出や土壌の保全、人間との文化的関わりなど、総合的な役割があるのだ。
自然林を守りたいというぼくたちの希望を打ち砕いて、新型カラマツ「クリーンラーチ」が改めて北海道の山林を「畑」としてねじ伏せていくのかも知れない。カラマツとの和解の道を探ろうとしているのに、クリーンラーチの登場はまったく悪夢なのである。一体どこが「クリーン」なのだ!