(18)リンゴ
22年4月に100本のリンゴを植えた。
支柱は太く、苗は細い。遠くに羊蹄山。
「リンゴは植えてから少なくとも5年、本格的な収穫は10年ぐらいからでしょ?自分の年齢を考えてます?」
ぼくは答えた。
「マルチン・ルターはこう言ったよ。『たとえ明日世界が終わるとしても、今日私はリンゴの木を植える・・・』」
問答はすれ違うが、年齢など気にしていたらなにもできなくなるではないか。
というわけで、数年前にぼくはリンゴの木を100本植えた。ブルーベリー園の隣に千坪ほどの土地があって、いつかなにか植えようと思っていたのだ。というのは正直じゃなくて、かつてこの場所にやはりリンゴを植えたことがある。サクランボとか、少し特殊なベリーを植えたこともある場所だ。つまりあれこれやっては失敗する因縁の農地ということになる。
「リンゴは得意だぞ、3回も植えたことがあるんだから」
3回も植えたはずのリンゴの木はいつの間にかどこかへ行ってしまい、もちろん収穫などしたことないのだから、周囲の目が厳しいのは理解できる。
今度こそ!の意気ごみのもとに、改めてリンゴ栽培の教科書を読む。ところがこれがむずかしい。将来どういう木に仕立てるのか、まずもってその展望をしっかり持って植えつける必要がある。簡単にいうと、従来型の「開心型」とか「主幹型」にするのか、それとも「スピンドル型」の密植栽培にするのかで、スタートが大きく異なってくる。隣の余市町や仁木町の果樹園を眺めると、どうもその両者が混在しているように見える。ひとまずオーソドックスな昔型を考えるのが妥当だろうか。
この選択は、苗木の注文に直接関係してくる。というのは、リンゴは必ず台木の上にそれぞれ固有の品種が接ぎ木されており、この台によってどういう樹形が作られるか決まるのだ。これまでの一般的なリンゴ苗は、「マルバ台」がほとんどであり、これは名前のとおり「マルバカイドウ」という木をベースにしている。中国原産のこの台木は、発根性、耐寒性に優れており、成育が旺盛で大型の樹形を作ることができる、とされる。マルバカイドウの前には、ミツバカイドウやエゾノコリンゴなどが台木に使われたのだそうだ。コリンゴは、近隣で時々見かける花のきれいな木で、なんとなくなじみがある。
大きな樹形を作るマルバ台に対して、「わい性台木」というのがあって、最近ではむしろこちらの方が多くなっているようだ。英国で作られた「M9」とか「M26」といった名前の台木で、小型樹形の栽培やスピンドル型の密植栽培用だ。さらには日本で開発された「JM台」というのもあって、いずれも樹高を低くし、作業効率や生産効率をよくしようとするものだ。
リンゴの品種を選ぶ前に、まずはこの台木について方針を持たなくてはならない。その上で、次はたくさんある品種からどれを選ぶのか考える。
毎年、秋になるとあちこちの苗木屋さんから果樹のカタログが送られてくる。どれも分厚い豪華カラー版で、無料では申し訳ないような気がする。見るだけで楽しい果樹カタログだが、ずっと以前はリンゴから始まったページが、最近ではブドウが先頭になっていて、これは果樹栽培の情勢を表しているのだろう。地元を見回してもリンゴ園は明らかに少なくなっており、もしかするとサクランボ園も減る傾向かも知れない。その代わりにわが余市、仁木方面で増えているのがブドウで、なかんずくワインブドウの畑が目に見えて増えている。親しくしている仁木町の果樹農家Oさんに言わせると、「リンゴは皮をむくのが面倒らしくて全然ダメだ。サクランボは天候が不順で不作が続いてる。いまいいのはハウスブドウと路地のワインブドウだね」とのことだ。一次産業は川下にある市場の嗜好がそのまま反映するのである。
そんな事情だが、それでも今日私はリンゴの木を植えるのである。
さて、ではどの品種を選ぶのか、ということになるのだが、ジャムやマフィンを作る工場を運営しているので、果樹加工についてはここで働く皆様のご意見がにぎやかだ。ベリー園だから当然その加工が中心だが、ジャムにもマフィンにも地元の果樹を使ったバリエーションがあり、原料仕入れで農家を回っている。だからみんな果樹のことをよく知っていて、「加工用なら紅玉が使いやすいけど、フジの方が保存性がいいんですよね。生食ならジョナとか津軽、王林とかトキかな」というようなことをたたみかけるように言い、その勢いに圧倒される。
混乱したぼくが選んだのは、結局なんということもない紅玉、フジという誠にオーソドックスな2種であった。困った時には伝統にすがるのである。がしかし、それではあまりに平凡で月並みでありきたりではないか、と思い、いささかの冒険を試みることにした。冒険というのはおおげさだが、近隣ではほとんど見かけない調理用リンゴ、「ブラムリー」30本を加えることにしたのだ。
ブラムリーはイギリス原産の調理用リンゴ、英語で言うとクッキング・アップルで、生食用ではなくなんらかの加工をするための品種だ。酸味が強いようで、アップルパイや肉料理用のソースなどに使うという。「火にかけるとトロトロに溶けて豊かな香りと風味が抜群である」とカタログにある。中サイズの丸い青リンゴだが、原種に近くて病害虫に強い、ともいわれる。以前にどこかで入手したブラムリーでパイを作ったことがあるらしく、わがジャム工場方面では大変評判がいい。「ブラムリーという名前がおしゃれだからじゃないの?」というようなことは思っても口にはしない。
ブラムリーの台木について、山形の苗木屋さんに電話で相談すると、「JM7」という台が優秀なのだそうだ。新しく作られたわい性台木で、病害虫に強く繁殖力に優れているという。奥さんの東北的な柔らかい口調には説得力があり、深く納得してブラムリーは全部この台木のものを選んだ。
背を低く育てるわい性栽培は、将来の作業を考えればあらゆる点で好ましいとは思うのだが、ただひとつ、積雪の問題がある。豪雪地帯にあるわが農場は、隣町の余市や仁木よりもはるかに多い積雪があり、それが全部木の上にのしかかる。生垣やベリー類は専用の木製養生具でカバーするが、背の高い樹木類はそういうわけにはいかない。雪による枝折れは日常的なことで、庭木では結局積雪レベルの下にある枝はあきらめることになる。さて、リンゴの場合はどうだろう。
果樹カタログや資料によれば、樹高はマルバ台でおよそ5メートル、わい台では4メートル以下に仕立てるのが普通のようだ。実生のリンゴは8メートルにもなるらしく、高いはしごをかけて収穫する欧米の写真を見たことがある。それでは大変なので、脚立で作業ができる高さ4−5メートルに樹高を抑えたい。積雪は少なくとも2メートルはあるから、一番下の枝をこれぐらいにするとして、果たしてどんな樹形が可能なのか、やってみないと分からない。
そんな不安をかかえつつブラムリーはわい台を選んだが、フジと紅玉はマルバ台にして、従来型の樹形を目指すことにした。主力品種であるフジにはかなりバリエーションがあって困るが、結局「三島フジ選択3号」と「着色フジ長ふ6号」というのを選んだ。同じ福島の別の会社に発注したのだが、その時のカタログが見当たらず、選択の理由がなんだったのかいまでは不明だ。きっと自信にあふれたその名前に感銘したのだろう。ブラムリー人気と同じではないか。
あらためて言うまでもないが、フジは極めて優秀な品種で、日本でも世界でも最も多く栽培されている。誰でも一度は食べたことがある、というぐらい生産量が多く、人々に親しまれている。世界に誇るこの品種を生み出したのは青森県だが、調べると歴史はかなり古くて、品種改良のスタートが昭和14年というから驚く。種として固定したのは戦後で、1962年に「フジ」と命名された。名前の由来が「日本一のリンゴ」だから、日本一の山「富士山」と、日本一の美女「山本富士子」から取って「フジ」になったそうだ。愉快な命名だが、最近の人は山本富士子が誰か知らないだろう。山本富士子の時代、ぼくが子供の頃、リンゴは木箱の中に入っていて、クッション材のもみ殻をかき回して取り出したものだ。『わたしは真っ赤なリンゴです♪』とか『赤いリンゴにくちびる寄せて♪』なんていう歌もあったが、いまでも歌えるから恐ろしい。そういえば、少年期のぼくの木工材料はリンゴ箱一辺倒だった。
品種選びについてもうひとつ加えると、リンゴは他家受粉の果樹であり、実をならせるには別の品種の木を植えて交配する必要がある、というポイントだ。ただ他の品種を植えればいいのではなくて、それぞれの開花期がそろわなくてはならない。それほど厳密なものではなさそうだが、早生、中生、晩生ぐらいは配慮の必要があるようだ。紅玉、フジはおおむね開花がそろいそうだが、ブラムリーがやや早いらしくて心配だ。
そこで授粉を目的に「クラブアップル」を植えることにした。「姫リンゴ」とも呼ばれるこの小型リンゴは、白い花や小さな赤い実がかわいい園芸種で、観賞用として庭に植えられる。ずっと以前にわが庭にもあって、ピンクの花がたくさん咲いたが、2本とも見事にネズミにかじられてしまった。今回植えたのは、同じクラブアップルでも観賞用ではなく、苗木カタログにある授粉用品種だ。観賞用と授粉用がどう違うのか不明だが、リンゴ農家向けカタログにあるのだから間違いないだろう。いくつかあった中で「ドルゴ」という種類を選んだが、「ターサ・チューダーの庭にもあった」という選択理由は、これまたミーハーなのである。植えつけたリンゴ苗木は、外周をこのドルゴ・クラブで囲まれることになった。
花粉の運搬と受授粉は昆虫、とりわけハチ類によっておこなわれる。いくら花が咲いてもハチ君たちが活動しなくては結実に至らない。自然に頼るのが農業だが、気候の変動などで思うようにいかないこともある。受粉を確実にするために、青森の農家では花粉を貯蔵しておいて、それを先端がフワフワした耳かきのような器具で花につける、という作業をしてきた。ずっと前だがその映像をテレビで見て、大変そうだなあ、と思ったことを覚えている。
ところが、最近ではまったく別の、ユニークな方法が工夫されている。花粉を求めるハチを飼育して、リンゴの開花に合わせて働いてもらおう、という作戦だ。「マメコバチ」という日本在来の小さな野生ハチがいるのだが、このハチは大変な働き者で、低い気温にも適応するし、人を刺すこともしないし、ミツバチのように行動範囲が広くない。集めた花粉を細い筒の中に押しこんで産卵する、という習性の「ツツハナバチ」である。水辺に茂るアシを集めて営巣させる方法を青森の人が発明し、この技術が一気に広まった。脚立に登って花粉つけの作業をすることを思えば、ハチさんの登場はまさに革命的なことだった。
もちろんハチの管理にはそれなりの手間がかかるはずだが、それでもこのマメコバチ作戦はりんご農家の作業を一変させるものだった。マメコバチさんありがとう、ということで、青森県板柳町では毎年「マメコバチ感謝祭」というイベントが開かれるそうだ。ぜひ行ってみたい。
ところが昨年、ちょっと嬉しくないニュースを目にした。マメコバチの数が減少傾向にある、というのだ。原因はやはり温暖化にあるようで、とりわけ近年の超高温は自然界に強い影響を与えていて、体感的にも昆虫全般が減少傾向にあるし、ぼくが好きなマルハナバチもずいぶん少なくなっている。今のところ近隣の果樹園で受粉トラブルがあるとは聞かないし、わがブルーベリー園でも結実は大丈夫だ。しかし将来、昆虫全般が激減したら、農業そのものが成り立たなくなるかも知れない。
自然に依拠する農業、果樹栽培だが、リンゴももともとは自然に成育していた樹木であり、それを改良して現在の園芸種に育てあげたものだ。バラ科リンゴ属に分類される食用リンゴは、樹木図鑑では「セイヨウリンゴ」という種名になり、中央アジア原産らしい。世界中で古くから品種改良がされ、一説によると8千年前に栽培の痕跡があるという。日本では縄文時代だからすごい昔だ。
日本にはリンゴの仲間でエゾノコリンゴやズミなどがあったが、中国からはカイドウの類が輸入されて、庭木として栽培されたようだ。食用のリンゴが日本に輸入された時期については、いくつかの説があるが、おおむね明治初期ということで間違いないようだ。入り乱れる諸説を整理すると、明治時代が始まる頃、戊辰戦争の混乱期に函館にやってきたドイツ人、ゲルトナーが七飯町のあたりに大規模な農園を始め、ここに各種の果樹などを植える。これがセイヨウリンゴが本格的に植えられた最初だ。その後、開拓使黒田清隆がアメリカから大量の果樹苗を持ち帰り、東京青山の官園(国立農場)経由で七飯町に運ばれる。これが明治5年で、ここを起点に各地方にリンゴ苗が配られたらしい。
余市町にリンゴがやってきたのは明治8年のことで、ふたつの農家がこれを受け取って栽培に成功した。この農家というのが戊辰戦争の当事者であり、追放されて入植した会津藩士だったそうで、このあたり歴史を感ずるところだ。余市にやってきたリンゴは、数も種類も多かったようだが、そのうち「緋の衣」と「国光」の2種が、明治12年になって実を結ぶ。初めてリンゴを見て、人々が大騒ぎした、と記録にある。この緋の衣の末裔の木が余市町の山田町という所にひとつ残っているそうだ。見学に行かなくては。
ことほどさように余市はリンゴの故郷なのだが、よく知られているようにニッカウィスキー発祥の地でもある。あまり知られていないのが、「ニッカ」の名前が「大日本果汁株式会社」の略称だということで、これが余市のリンゴに依拠していることだ。創業者竹鶴政孝は、ウィスキーの製造を始めたが、製品を出荷するまでには長い貯蔵期間が必要になる。その期間の経営として、竹鶴は地元産のリンゴジュースを製造販売した。「日本果汁」だから「ニッカ」という。
そういうわけで、余市町とその隣の仁木町はリンゴの故郷なのだが、残念ながら両町に接するわが赤井川村は、一部を除いて、気候上の理由で果樹栽培には適さないとされている。気温が低いこと、積雪が多いこと、雲海が立ちこめて日照が少ないこと、などが指摘される。ところが、偶然にもぼくたちの農園はその例外の場所にあり、標高がやや高くて雲海の上にある。夏や秋には霧に沈む村を上から眺め、遠くに浮かぶ羊蹄山に挨拶できる場所だ。景色がいいだけでなく、この農地を開いた入植者によって、実際にリンゴやサクランボの栽培がおこなわれた歴史があるのだ。
香川県からこの地に入植したYさんとその一族は、もちろんたくさんの開拓の苦労はあったろうが、家族としては発展したようで、いまでも村内にYさん姓が多い。ぼくたちが本拠地にしている場所には直系最後のYさんによって果樹が栽培され、その痕跡があちこちにある。ぼくたちの代になったこの30年でほとんど朽ちてしまったが、サクランボの古木がいくつもあったし、リンゴの台木から出て大きくなったコリンゴは、毎年盛大に花を咲かせている。ブルーベリー園の中にぽつんと残った洋なしの木は、今でも実をつける。納屋があった場所にはリンゴの貯蔵用と思われる地下室があったし、農薬の瓶などもたくさん残っていた。
残念ながら最後のYさんと直接会うことはなかったのだが、村の人たちに聞くと中々ユニークな人だったようで、その武勇伝が伝わっている。リンゴについては「安さんの旭」ということで、村内で有名だったらしい。「安さんのリンゴ、おいしかったよお」と懐かしそうに言う古老もいる。「安さん」というのは下の名前から、「旭(あさひ)」というのはそういう品種のリンゴのことだ。
旭は、明治の中頃に札幌農学校に入った「マッキントッシュ」という品種の和名で、欧米では今でもよく栽培されているらしい。アメリカ東部やカナダに多いというが、コンピューターのあの「マック」はリンゴのマッキントッシュを由来とし、有名なあのリンゴのロゴもきっと旭なのだろう。寒冷地に強い品種、とされるが、保存性が良くなく、病害虫に弱い、ということで日本では過去の品種とされる。
そんな歴史を持つ農地を引き継いで、ではなぜぼくたちがリンゴやその他の果樹栽培を始めなかったのかというと、そこにはいくつか理由がある。
最大の問題は、農薬だ。北海道に移住して最初に暮らした仁木町で、見学に訪ねた果樹農家のひと言は衝撃的だった。栽培の実際を尋ねるぼくに、その人は「リンゴは薬でとるんだあ!」と大きな声で言った。びっくりした。田舎暮らし10年で、多少は農業の経験もあったが、初心者ゆえに農薬についてはことさら敏感だったし、作物を栽培するなら無農薬でやりたいと思っていた。しかし、果樹栽培の現場ではそんな甘い考えは通用しないようだ。リンゴのように改良を続けてきた果樹は、その分病害虫に弱くて、薬品の助けを借りないとしっかりした収穫ができないらしい。
その後、同じ仁木町で無農薬を試みる果樹農家が、病気を蔓延させるとして隣家から訴えられる事件が起こり、「りんご裁判」として注目を浴びた。訴えられた農家の人と知りあいだった関係で、ぼくはその「Eさんを守る会」の会長をつとめることになった。この農薬裁判の時に証人として招いたのが、あの「奇跡のリンゴ」の木村秋則さんだった。この時の顛末は長くなるので割愛するが、ぼくが知ったのは、木村さんのリンゴは本当に「奇跡」だということだ。彼にはできたが、他の人には追随できない特別な哲学であり技術だと思った。一般に可能なのは、ひとまず「減農薬」という範疇で、様々なレベルでこれは実行されているようだ。
赤井川村に移って新しい農地を手に入れ、そこが以前果樹園だったと知ったが、このリンゴ裁判を通過した後だったので、とてもリンゴを植える気にはなれなかった。
もうひとつ加えると、これも農薬に関係するが、いわゆる「防除」については、それなりの知識と技術が必要になる、という問題がある。毎年農協から配布される「防除歴」には、リンゴの場合年に10数回の各種薬剤散布が指導されており、それぞれの細かな時期の指定もある。一般農家並にやろうとしても、そう簡単に素人が手を出せるようなものとは思えない。やはり農薬とは距離をおこう、そう思った。
気まぐれにリンゴやサクランボ、ナシ、プルーンなどを植えてみたりもしたが、もともと覚悟ができていないから、いずれも半端に終わってしまった。というわけで、結局「安さんの旭」の後継者にはなれず、栽培が容易で無農薬有機栽培が可能なベリー類に特化した農園を経営するに至った。正しい道を選んだ、というよりも、安易な方へ進んだだけかも知れない。
それから3年、ひとまず元気に育っている。
エゾシカに枝を折られたので電気柵を張った。
それからまた数十年を経過して、今回ぼくは改めてリンゴを植えることにした。
一旦あきらめたリンゴ栽培にどうして再チャレンジするのかというと、収穫のハードルを思い切り下げる相談がなり立ったからだ。つまり、目下ジャムやマフィンの工場で使われている二級品、はね品リンゴを自家で作る、という、言葉にするとなんだか情けない栽培方針が浮上したのだ。農家を回ってはね品リンゴを求めるのではなく、初めからその品質を目標に栽培してしまおう、という作戦だ。しかし、これは必ずしも弱気の消極策でもなくて、農協の防除歴のスタンダードから思い切って低農薬栽培へとシフトする方針でもある。加工用なので、商品出荷用の見た目にきれいなリンゴではなく、中身さえしっかりしていればそれでいいのである。
やってみないと分からないが、この方針なら農薬散布の回数もかなり減らすことが可能ではないだろうか。無農薬とまではいかないにしても低農薬、減農薬リンゴとして、ちょっと自信を持てるかも知れない。自社栽培のリンゴを使ったマフィンやジャムは、堂々と販売できそうだから、工場の皆さんもきっと応援してくれるだろう。
この皆さんに協力してもらいたいことのひとつが、アップルパイの商品開発だ。もちろん過去に何度も試作はしているだろうし、いまさら開発というほどではないかも知れないが、ぜひ新商品としてアップルパイに挑んでもらいたい。いい歳して笑われそうだが、ぼくはアップルパイが好きで、お店のメニューにあれば迷わず注文してしまう。今は閉店してしまったが、仁木町にあったパイの店では常連客だった。
初めてアメリカに行ったのはもう半世紀も前のことだが、そこで出会ったアップルパイは衝撃的だった。地域チェーンのファミレスで、「アップルパイ・アラモード」というのを注文し、ぼくは感動した。味覚の蒙昧を露呈するようだが、暖かいパイの上にアイスクリームがどんと乗っていて、こんなに美味しいものが世にあったのか、と思った。もちろんアップルパイを生まれて初めて食べたわけではないのだが、アメリカのパイはちょっと別次元だった。「美味しい」とひとまず表すが、感動の半分ぐらいを「大きい」とも言えそうで、まずはそのボリュームが圧倒的だ。パイに入っているリンゴの量が半端ではないし、上に乗ったアイスクリームも人のこぶしぐらいもある。これひとつで満腹になろうかという重量級は、こちらに向かって「どうだ文句あっか!」と言っているようだ。
あえて言うが、ぼくはこういうアメリカが結構好きだ。フランスやイタリアの都会人が田舎者のアメリカを馬鹿にするのは分かるし、そちらに乗るわが同胞の皆さまの意見もあろうかと思うが、繊細さよりも力ずくの食文化というのがあってもいい気がする。
ちなみに、わが農場の特産品はブルーベリーのマフィンだが、これもまたアメリカのマフィンで、割ってみると思い切りいっぱいベリーがつまっている「力ずくマフィン」だ。パイもマフィンも、どちらもアメリカの定番で、いわば国民食のようなものだろう。
アメリカ、メイン州、シェーカー村に残る太いリンゴの木は「フジ」のように見えたが、昔型の開心自然型の姿が見事だったし、教団を代表する精霊画の「ツリーオブライフ」(生命の木)もそんなリンゴを描いたものだと思われる。美食家だったシェーカー教徒もきっとパイを焼いたのだろう。
・・・・・ということで、自家製パイアラモードを当面の目標として、ぼくのリンゴ栽培は再出発した。植えてすぐの冬には積雪でかなりの枝が折れ、翌夏はエゾシカにまた枝を折られ、苗木は苦難の出発だったが、それでもなんとか育っている。知りあいの果樹農家のアドバイスを聞きつつ、最初の収穫を目指してがんばるのである。
助言者Oさんは言った。うちのトラクターは「イセキ」だから、うちで作るリンゴは「奇跡」じゃなくて「イセキのリンゴ」だ!アハハ!