アリス・ファーム へようこそ! 北海道 赤井川村 から ブルーベリー ジャム と 北の暮らし をお届けします。


グランパ樹木記マーク
#05 (2024.5)
(5)クリ <大きなクリ木の下で>

秋のクリ三兄弟。
クリは落葉が遅いので新雪で被害を受けることもある。
 年輪を重ねた大きな木は、風雪に耐えて長く生きのびてきたという、それだけでもう十分の価値がある。古木の幹は年月を重ねるうちに傷つき、あるいは亀裂が走り、伸ばした枝も必ずしも整った姿ではないかもしれない。しかしそれでも、黙して佇むその姿には独自の風格や威厳が漂う。古木老木は無条件に敬意をはらわれるべき存在だ、そんな風に思っている。
 わが農場には、訪れた誰もが感銘感嘆する3本の老大木が、悠然泰然と並んでいる。
 そこは農場の入り口から正面の高台で、樹種はクリ、推定樹齢は百数十年だ。幹の直径は1メートルを越え、四方に伸びる枝はそれぞれかなりの長さになる。横一列に並んだこのクリ三兄弟の全幅は、樹冠全体で30メートル以上あり、大型の二階建て住宅ほどのボリュームだ。四季折々いつ見ても圧倒的な存在感をもってそびえており、いわば農場の重心のような存在だ。
 北海道ではクリは南の方に分布していて、石狩低地帯あたりが北限らしい。わが村には天然のクリは生育しておらず、だからこのクリは人によって植えられたものだ。その太さ巨大さからすると、相当に古いものであるには違いなく、きっと開拓期に入植者の誰かが植えたものだろう。そう思って近隣の村人に尋ねるのだが、なにしろずっと昔のことなので確かなことは分からない。
 わが赤井川村における和人の入植は明治時代になってからのことで、その前は当然アイヌの人たちの領域、アイヌモシリだった。興味深いことに、更にその前の時代、縄文時代の石器や黒曜石の刃物なども近辺でたくさん出土している。ちなみに、「赤井川村」という村名はアイヌ語のフレベツ(赤い川)をもとに作られたらしい。フレベツ村の方がずっとよかったのに、と思う。
 『村史』によれば、明治初期に余市川を遡っていくつか鉱山が開かれ、やがてカルデラ盆地の内部、「赤井川原野」の払い下げが始まる。一定期間の間に開墾に成功すれば、国がその土地を払い下げる、という制度があったようだ。資料には、この払い下げに応募した人の中に、香川県出身のYさんという名前がある。我々が買収したこの農地が代々Yさん一族の所有だったことは確かなのだが、果たしてYさんがこの場所最初の入植者だったかどうかは不明だ。というのは別の情報もあって、「日清戦争から帰還した屯田兵たちが余市町にいて、そのグループがお宅のあたりへ入植したはずだ」というのだ。
 香川からの移住者か日清戦争の屯田兵か、そのどちらかが我々の農場を最初に拓いた人で、どちらかがクリの三兄弟を植えた人、ということになるのである。いまではもう確かめようがないが、時代だけは割合はっきりしていて、いずれも明治28(1895)年から明治29年の頃のことだ。入植してすぐに植えたとするなら、いまからおよそ130年前ということになる。
 というわけで、推定樹齢130年の大切なクリの木なのだが、その歴史のいまに続く40年は我々が共にしているのである。
 明治の頃を起点に、重鎮クリの大木は長い歴史を経てきたわけだが、季節とともに脈打つ生命のサイクルは昔も今も少しも変わりはない。北海道の長い冬は一年の半分を占めるが、どんなに厳しい冬であっても、春になれば必ず枝先から新芽が生まれて新しい年の活動を始める。クリの木は他の木とくらべて春の動きが遅いので、時として心配になることもあるのだが、でも大丈夫、やがてしっかりと全体が淡い緑におおわれる。雪の中で枝たちが黒々と裸の四肢をのばしていたのが、生まれ変わったように緑の樹冠を回復するのである。新緑の後、6月になるとそこにはたくさんの花が咲き始める。淡い黄色の花は遠くからでもすぐに目につく大きな下垂状のものだ。20センチにもなろうという垂れ下がった花は、実は雄花で、雌花はその付け根の方に小さく咲く。クリはブナ科には珍しく虫媒花なので、昆虫を引き寄せるための派手な花の姿であり、同時に強い匂いもある。飼育されているミツバチもクリの花に来るが、クリの蜜は独特の匂いと色から必ずしも高級品とはされない。
 ハチやアブなどのポリネーターの働きで受粉したクリの花は、やがて緑の小さな実をつける。誰もがクリと聞けばただちにクリの実を思い浮かべるように、秋の収穫期はクリの木のハイライト場面だ。果樹はどんな種類でも樹上に実ったものを収穫するが、クリだけは例外で、地面に落ちた果実を収穫する。樹上ではイガに守られていたクリの実は、地面に落ちるとトゲのある外皮が割れて中の実が顔を出す。老大木3本が実らせるクリはそれはそれは大量で、次々と枝から落ちてやがて樹冠の下にはびっしりと実が敷き詰められる。
 10月は収穫の季節だ。地面に落ちたクリの実を、リスと競争しながら拾い集める。艶やかな“クリ色”の実はどれもきれいでおいしそうだ。わが家のクリはいわゆる「シバグリ」あるいは「ヤマグリ」で、自然分布している樹種だ。だから栽培種のような極端に大きいクリではないが、それでも中国クリよりは少し大きくて、つまり十分に食用になるサイズだ。ただ、結構多くあるのが実にあいた丸い穴だ。これは主にクリシギゾウムシという虫が開けた穴で、内部が痛んでいるのでその実は食べられない。ゾウムシというのは1センチほどの甲虫で、頭から長い口吻が伸びていて、その姿からゾウムシの名がある。ぼくは連中が地上に落ちたクリの実に穴を開けるのだとずっと思っていたが、そうではなくて、どうやらクリの実がまだ樹上にあって、緑のうちに成虫が卵を産むらしい。卵は実が成熟する頃に孵化し、その幼虫が穴を開けて実の中に潜入するのだそうだ。どおりで地面を探してもこのゾウムシがみつからないわけだ。
 毎年秋になるとクリ拾いをする習慣だが、しかし時々心配になる。樹木にとって花や実の生産はかなりエネルギーの負担になるはずで、ましてやクリのように大きくて糖度の高い実を作るのは大変なのではないだろうか。木は自らの命が危うくなると、最後の力を振り絞って花を咲かせ実をつけて子孫を残す、そんなことが言われる。クリの豊作は嬉しいが、もしかしたらこれは最後の余力なのではないか、かすかにそんな不安がかすめるのである。なにしろ百年を越えた老木だしなあ、と思うのだが、収穫が嬉しくてやがて忘れてしまう。
 ともあれ、肥料もあげないのに毎年たくさんの実をつけて、おまけに地上で収穫ができるのだから、クリは実にありがたい果樹である。満点をあげたいと思うのだが、しかし問題はイガから出したその実の、きれいな茶色の包装にある。これを鬼皮というが、この皮をむかないことには中にあるおいしい果実に到達できない。鬼皮の下に更に渋皮などというやっかいな皮もあって、この皮むきの作業こそがクリを少し面倒な果実にしている。
 クリの皮むき専用のハサミみたいなものも市販されているが、どれもそれほど使いやすいとはいえない。クリご飯もクリきんとんも、マロングラッセだって、まずは皮むきから始めなくてはならない。大きな樹冠の下でわいわい言いながらのクリ拾いは楽しい行事だ。しかし収穫を家に運んでからは、ひたすら皮むきの単調な作業が続くのである。皮をむかないで食する方法となると、焼き栗という作戦があるにはある。皮をむかないというより、皮が自動的に実からはがれる、というべきか。焼き栗というのはフランスやイタリアの街角で売っていて、冬の寒い日にほふほふ言いながら食べるのがおいしい。なんて知った風に言うが、旅の途上のほんのわずかな見聞。
 そのイタリアの田舎を旅している時、「農協の店」のようなものがあった。珍しい農具系の商品が色々あって、立ったままアスパラを収穫するハサミとか、リンゴ収穫専用のバッグとか、見るだけで楽しかった。その時に購入したのが「焼き栗用フライパン」である。そう店員に言われなければ分からない一品で、普通のフライパンに小さな丸い穴が点々と開いているだけのものだ。クリを入れて火にかければ、クリが焼けて自ずと跳ねまわる、のだそうだ。イタリア人の言うことはあまり信用できないが、帰宅してから実験すると、これが本当なのであった。ガスコンロでも火のまわり具合がちょうどいいらしく、パチパチとはぜて見事に焼き栗ができあがる。以来「カチカチ山」ならぬカチカチフライパンを愛用してクリを楽しんでいる。最近、東京にある「ファーブル記念館」を訪ねたのだが、地下にファーブルの生家の復元があって、暖炉の横にこの穴あきフライパンが下がっていた。イタリアで買ったものは薄い鉄板でできているが、ファーブル家のものはずしりと重い鉄製で、時代を感じさせる存在感だった。
 ことほど左様に、クリは西欧でも古くから人の暮らしにしっかり定着した果実であった。北半球に広く分布しているクリが食用にされるのはいわば当然で、人類史の中で長く続いた狩猟採取時代の主要な食品のひとつだった。日本でも、縄文時代にクリが食用されたことが遺跡から明らかになっている。青森の三内丸山遺跡に行くと、中央に六本柱の巨大な建造物が復元されているが、このシンボル的建物の柱はクリ材だそうだ。直径が1メートルもある柱だが、遺跡の穴がそのサイズだったらしい。すごい巨木を使ったものだ。ここではクリを採取するだけでなく、植林されていた形跡もあるという。話は飛ぶが、遺跡内にある資料館を見学すると、「北海道・赤井川産」と表示されたヤジリが展示されている。わが村で作られた黒曜石のヤジリが海を渡って青森まで行ったということで、なんだかちょっと誇らしい。
 縄文時代からクリは食用にされ、建築材に使われた、ということなのだが、クリ材には然るべき優れた特徴がある。最大の長所は腐食に強い、ということだ。「アリス・ファーム」は半世紀前に飛騨山中、「有巣」部落で誕生したが、放棄された古い農家を数軒借り受けて最初の暮しを始めた。いまにして思うと、それらの農家はさすが飛騨の古民家というべき立派なものだった。柱はヒノキ、梁や横物はヒメコマツなどで、思い切り太く重量感のある木材が使われていた。そして、この立派な建物の土台がクリ材なのである。建物に重量があるからか、基礎は大きな石を並べただけで、その上にクリの土台が乗る、そういう作りだった。土台は一番地面に近い所にあり、雨や湿気によく当たるはずだ。だから腐食や虫害に強いクリ材が選ばれたのだろう。
 腐りにくい、という特徴をよく表しているのが、鉄道の枕木に使われるクリだ。かつて鉄道の枕木はほとんどがクリ材だった。それがコンクリート製のものにどんどん交代していったので、一時中古の枕木が大量に出回った。北海道に移転した頃がその時期だったので、ぼくたちはたくさんの枕木を安く入手して利用させてもらった。地面に敷いて歩道にしたり、フェンスの支柱にしたりだったが、いまでもそのまま残っているものも多い。実にクリ材は立派な木材なのである。
 ところで、農場の中心にあるクリの三兄弟にはいま、ふたつの工作物ができている。ひとつは三本の根元を結ぶ木製のデッキだ。クリが作る大きな木陰は、ゆっくり腰かけて過ごすのに最適な場所で、夏の暑い日でも爽やかな風が吹き抜けていく。羊蹄山を眺めながらお茶を飲める、大変贅沢で快適なスポットだ。

ツリーハウス。
クリ本体に力がかかる点は一カ所のみにした。
 もうひとつはツリーハウスで、何年か前に「孫たちのために」という名目で、手伝いなしのひとりで完成させた。大切な老木に負担をかけないように、幹に接する部分をほんの少しにして、目立たない工夫をした柱で建物を支えている。
 追記すると、昨2023年はクリの木受難の年だった。クリを食草とする蛾、クスサンが異常発生したのだ。
 クスサンはヤママユガに属する大型のガで、幼虫も8センチもあってそれが白くて長い毛におおわれている。この毛をゆさゆさ揺らしながら歩くのでシラガタロウなんていう名前もついている。目立つ毛虫だからずっと前から知っているし、横にあるブルーの点々もおしゃれな配色でかわいい、と思っていた。幼虫はやがてサナギになるが、クスサンのサナギは一風変わっていて、外側の繭が網目状で中が見えるようになっている。どうしてこんな風通しのいい繭を作るのか不明だが、その姿からスカシダワラなどと呼ばれる。サナギはやがて大きな成虫に羽化して飛び立つが、下の羽根には丸い目玉模様があって、これはガやチョウによくある天敵への防御なのだろう。
 というクスサンだが、この幼虫がもっぱらクリの葉を食草とするのである。クリ以外も食べると言われるが、実際にはもっぱらクリが主食で、クリケムシと呼ばれるぐらいだ。いつもの年なら少数だからなんとなく眺めていられるのだが、昨夏はその数が半端でなく、クリの木にびっしりとついて、団体でワシワシと音をたてて葉を食べるのだった。幼虫のフンが頭上から降ってくるので、デッキに座ることもできず、葉を失ったクリは木陰を作ることもできなくなった。農場のクリ兄弟の他にもいくつかクリの木があるのだが、それらも一斉に丸裸になったのである。
 クリの木を食べ尽くした幼虫は当然サナギになり、やがて成虫になって飛び回ることになった。なにしろ大型のガだからこれが乱舞するとすごい迫力で、灯火のあたりは近づくのが恐ろしいような様相だった。報道によるとクスサンの乱舞は札幌のような都会でもあったらしく、地下鉄駅入口の写真などが掲載されていた。もっともクリの木もたいしたもので、クスサンの幼虫がサナギになるために去ると、すぐにまた新芽を出して、やがてまた緑を回復した。収量は少なかったが、いつものように秋の収穫もできたので、外形上はもとどおりだが、木への負担はやはり大きかったのではないかと思う。
 昨年は春先からマイマイガというガの幼虫も大発生していて、それに続いてのクスサン騒動だった。ずっと田舎に暮らしていると、時々はこういう自然の乱調に出会うこともあるのだが、昨今の温暖化の予兆に神経質になっていることもあって、いささか気の重い現象であった。


グランパ樹木記マーク
#04 (2024.4)
(4)生垣の話 続き

 前項でイチイの生垣について悪口を言ってしまったが、それはぼくの住むあたりを見回した印象であって、内地で見るようなよく手入れされたイチイ生垣は、端正な緑の立体としてそれなりに見事なものだ。彼我にどういう違いがあるかというと、端的に積雪の問題だろう。つまり、積雪のある地域での生垣は、そもそもからハンディを負っているのだ。だって、たとえばわが家では黙っていても2メートル以上も雪が積るのだから、当然生垣の上にもその雪が乗る。この重量に自力で耐える生垣というのはありえないから、どのようにガードして冬を越すか、それが勝負になる。この時、冬にも葉をつけている針葉樹というのは耐雪上圧倒的に不利だ。
 わが家のカツラの生垣は、葉を落とした晩秋に、専用に作った木製の大型「すのこ」のようなもので両側からはさみこんでいる。アルファベットのA字型に養生をして雪に備えるわけだ。カツラは葉を落としているし、枝も柔らかいのでこういうことができるのだが、イチイとなると中々こういう冬囲いはむずかしく、色々方法はあるのだろうが、どうしても雪のダメージを受けてしまう。おまけにイチイは成長が遅いから、痛んだ部分の回復に時間がかかる。北海道のイチイ生垣がハンサムでないのは、こういう事情によるのだろう。
 雪の影響を受けない、あるいは影響が軽微な内地では、生垣は広葉樹、針葉樹ともに広く樹種を選ぶことが可能だ。そもそも温暖な気候だから自生する樹種も多く、イチイの他にもマキやキンモクセイ、ツゲ、ヒバ、イボタなどたくさんあるし、アラカシやカイズカイブキなどは背丈の高い生垣に使われるようだ。京都や奈良を歩くと、それはそれは見事な生垣に出会って、やっぱり内地にはかなわないなあ、とちょっと敗北感を持ったりするのである。別に京都や奈良と戦っても仕方ないのだが、やはりくやしい。
 京都からもっと遠くへ行って生垣を眺めるなら、やっぱりイギリスだろうか。イギリスの生垣、というとすぐに「ヘッジ」とか「ヘッジロー」というような単語がネットに出てくる。ただ、ヘッジローというのはぼくたちが生垣として連想する種のものではなくて、田園地帯で見かける放牧地の区画のようなものを指すはずだ。
 イギリスやアイルランドの田舎を旅すると、緑の牧草地とこのヘッジローのラインが風景の中心になっていて、もちろん道路との境界も同じヘッジで区画されている。車から降りてよく見ると、たしかに植物による垣根ではあるけれど、まず樹種がかなり混ざっているし、かなり乱暴に木をねじ曲げてある。刈り込んで形を作るというよりも、灌木の枝を編むようして作られているのが分かる。樹種についてはよく分からないが、ぼくの見た範囲ではヤナギが確認できた。そして、この混み合う雑木の枝先を、槍のように思い切り鋭く剪定してあって、それは垣根を越えての侵入を防御するかのようだ。羊や牛などの動物たちに対して、この鋭い枝先は十分効果があるだろうし、囲い込む役割を果たすのだろう。ヘッジの幅も相当に広く、2メートル近くありそうだ。
 イギリスの旅で買った本のひとつにこのヘッジローについてのイラスト本があったのだが、残念ながら手元に見当たらない。その本にはヘッジの歴史や作りかた、そこにできる生態系などについて細かく記されていた。生垣に咲く花、実る果実、巣を作る野鳥、などが紹介されていた。そのヘッジも近頃ではどんどん減って金属フェンスに代わっているらしく、伝統を惜しむノスタルジーに満ちたいい本だった。
 というわけでヘッジローとは牧場の囲いのことなのだと思うが、では庭の生垣をどう呼ぶかというとこれもまたヘッジというらしい。イギリスのある園芸書には「単数の植物で作るのはヘッジ、複数の植物を組み合わせるのがヘッジロー」とあるが、しかし他の本では小さな低い生垣もヘッジローと呼んでいるから、言葉では両者の区別はできないみたいだ。それはともかく、生垣は西欧の庭でも実に多様に使われていて、樹種は日本よりずっと多いように思える。イギリスの種苗カタログを眺めると、花や野菜の種に混じってヘッジ用樹木苗のページがある。それによれば、イチイやツゲ、ニシキギやヒイラギ、ツバキ、月桂樹などが並び、ベリー類やバラなども生垣用に紹介されている。実がなったり、花が咲いたり、葉色がにぎやかだったりとかなり多彩だ。生垣を楽しもうとする姿勢がとてもいい。いわゆるフォーマルガーデンなどにある幾何学模様を作る低い生垣はイチイやサンザシ、ツゲなどが使われるらしい。刈り込みに強く、葉が小さいことが条件になるのだろうか。イチイは「ユー」、サンザシは「ハー」と呼ぶらしくておもしろい。
 遙か遠くイギリスへと空間を飛んだので、ついでに今度は遙か昔へ時間を飛んで、70年前の横浜の生垣へ行ってみたい。
 ぼくはどこかよく分からない外国で生まれたことになっているのだが、たしかな記憶が始まるのは幼児期の横浜の家だ。横浜市の郊外、白楽という場所に家があって、和洋折衷の平屋建ての住宅だった。記憶では家も庭もかなり広かったように思うが、子供の頃の記憶のスケール感というのは実際と結構違っているので、あまり確証はない。最近、その頃通った横浜山手にある聖公会の教会を訪ねたのだが、記憶とはまるで違って、びっくりするぐらい小さくて情けない建物だった。だから横浜の家も庭もたいしたものではなかったのかも知れないのだが、ともかく幼児期のぼくには大きな世界でありフィールドだった。
 敷地の前面には割合広い道路があり、裏側には川が流れていたが、そのほぼ一周が生垣で囲まれていた。生垣は「マサキ」の木で作られていたのだが、これは当時最もポピュラーなものだったと思う。近所のどの家もマサキの生垣に囲まれていたように記憶している。ぼくが最初に覚えた樹木の名前もこのマサキだったに違いない。マサキはいまでも使われるのだろうが、これといって特徴のない平凡な低木だ。おそらくその強健さを買われて多用されたのだろう。
 少し成長して関東学院の小学校に通うようになったが、学校ではお坊ちゃま、帰ると下町少年とのつきあいの毎日だった。勇敢で下品なS君が当時のぼくの先生だったが、彼が当時熱中していたのが「ホンチ」というクモの戦いだ。横浜に限った伝統らしいが、野生のクモどうしを戦わせるゲームがあって、少年たちはそれぞれクモを捕まえては飼育し、戦いに挑むのだった。ホンチはハエトリグモの一種で、オスは好戦的で相手とがっぷり組んで戦うのだ。マッチ箱に入れて持ち歩き、戦い用の大きめの紙箱は駄菓子屋で売っていた。「ホンチ箱」と呼んでいたと思う。
 このホンチがいるのが生垣のマサキだ。春になるとその年の自分のホンチを獲得すべく、少年たちは生垣を丹念に見て回った。ぼくは小さかったから親分の後をついてあるくぐらいだったが、偶然自分でホンチを捕まえると嬉しかった。せいぜい1センチほどのクモだが、それなりに個性があり風格のようなものもあった。S君から二級品をもらって自分なりにかわいがったりもした。ホンチは正式にはネコハエトリというクモで、巣をつくらずに獲物を捕獲する肉食の戦士だ。クモを嫌う人もいるが、ぼくはこの少年期の経験があるので、割合クモが好きだ。ハエトリグモ類は北海道にも普通にいて、たまに見かけるとちょっと声援を送りたくなる。
 というわけで横浜の住まいと、そこにあったマサキの生垣と、そこにいたクモの話なのであるが、幼児期から少年期にかけての記憶として、これらは結構しっかり根をはっている。この横浜の家には広い庭にそれなりの数の庭木が植わっていたはずなのだが、その中で特に覚えているのが「アオギリ」の木だ。緑がかったすべすべの幹の木だったと思うが、これがぼくの木登り専用の木だった。なにがおもしろかったのか、よくこの木に登ってあたりを見回していた。台風が来る予報があると、家では雨戸を打ちつけたりしていたが、ぼくは揺れる木に登ることを最大の楽しみとして待つのであった。台風の日に登ったアオギリが風で大きく揺れ、それに身を任せた時の快感は、いまでも身体の芯の方に結晶しているように思える。
 アオギリの他でよく覚えているのは、イチジクの木だ。それなりに大きく枝を張った木で、実がなると収穫しては家族で食べたのだが、ぼくはこの果実がすごく嫌いだった。この木は葉や枝を折ると白い粘液が出て不気味だったし、木があった場所が川のそばの陰気な所だったからも知れない。70年も経つのに、いまだにイチジクは苦手だ。
 思い出ついでに記しておけば、玄関先にあった大きなヤツデの株、自分より背の高い白いバラの茂みなどもその色合いとともに記憶の中に浮かんでいる。いま、ぼくの庭には種名の分からないブッシュ状のバラがいくつかあるのだが、それがなぜか横浜のバラとよく似ている。一緒に庭を歩く母親に「横浜の家にもこんなバラがあったよねえ」と言うと、5分ぐらいたってから突然大声で「あー!あったあった!」と答えた。100歳の記憶にも眠るバラなのであった。


グランパ樹木記マーク
#03 (2024.3)
(3)カツラの香り
 防風林のためのトウヒ苗木を別にすると、初めてお金を払って買ったのがこのカツラの木だ。漢字で「桂」と表す日本屈指の名木だ。
 札幌の植木屋さんNさんを訪ねたのは、庭作りのごく初期の頃だった。一般的に言うと「植木屋さん」はお屋敷に庭木を植えたり剪定したりをする人、ということになるが、Nさんはそういう職人さんではなくて、庭木の販売を専門とする、いわば「植木販売業」とでもいう人物だった。札幌郊外に広い「土場」をもっていて、そこには様々な庭木が植えてある。値札はついていないが、どれも販売用の木で、土の下ではいつでも移動可能なように「根巻き」がされている。Nさんに案内してもらって、土場の木々を見て歩くのは楽しい体験だった。それぞれがどんな樹種で、どんな特徴があるのか、直接解説を聞くと、図鑑で見るのとは違うリアルで新しい木の情報だった。
 二回目の庭木見学の中で、思い切って購入を申し出たのが一本のカツラの木だった。6メートルほどの樹高で、枝がのびのびと上に広がっていて、気持ちのいい姿をしていた。おそるおそる値段を聞くと6万円とのこと、それぐらいならなんとかなりそうだ。植木屋さんで庭木を買うなんて、なんだか分不相応な気がしたが、土場の庭木の中では比較的小さかったし、多分値段もぼくの懐に合わせてくれたのだろう。
 というわけで、このカツラがわが庭最初の記念樹になった。山の林道脇に生える小さなシラカバを引き抜いてきて植える、ぐらいの経験はあるが、しっかり根巻きがされた庭木を植えるのは初めてのことだ。根巻きとは根の部分を一定の大きさに切りそろえて、そこを麻布で包み、同じく麻の縄できつく巻いた状態をいう。木の樹高に応じて根巻きの大きさも決まるが、あらかじめこうしておけば、運んですぐに植えつけることができる。根に巻いた麻布も麻の縄もそのままで植えてよく、やがて土中で分解して根が伸びるのをじゃましないという。
 札幌からトラックでやってきたカツラを、できあがったばかりの庭用地に定植したのだが、その風景はいささか寂しいものだった。用地は南に向かって土を移動しているので、一帯はかなり心土が多く、つまり赤茶けた様相をしている。その南の角に目印的な木がほしいと思って植え場所を選んだが、粘土をただ広げたような殺風景な地面に植えられたカツラは、まるで略奪された令嬢のごとく、その可憐な枝や葉を振るわせるのであった。ましてやさえぎるもののない吹きさらしの丘の上である。教えられたとおりに支柱を立てて保護したものの、寒風にさらされてなんだかとても気の毒な姿であった。さぞかし札幌の穏やかな日々が恋しかったろう。
 実際、この第一号カツラはすぐに下の方の枝が枯れ始め、翌年になると更に枝枯れが進んで将来が危ぶまれた。それでも木全体としてはなんとか耐えて生き残り、5年もすると新しい枝を伸ばすようにもなった。下は赤土、上は寒風、という過酷な環境によく生き延びてくれたものだ。
 それから40年、このカツラは今でも同じ場所に生きていて、決して見事という樹姿ではないが、まずまずの大きさになった。樹齢のわりには幹などやや老木風だが、それもやむをえないだろう。今では後から来たカエデやシナ、コブシなどと並んで穏やかに同居している。きっと昔の苦労をみんなに話しているのだろう。
 カツラの木は、庭木としての人気ではかなり上位に位置しているのではないかと思う。大きくなるので庭を選ぶだろうが、その上品な樹姿からしてファンは多いはずだ。ずっと以前だが、ある著名な評論家の家を訪ねたら、そこの娘さんが、「私の名前が桂子なので、母が庭の中央にカツラを植えたんですよ」と言っていた。立派な姿のカツラの木を眺めながら、さすがの名家に名木であること、と感銘したものである。(注)
 カツラの魅力は、まずその葉にあると思う。ハート型の薄緑色の葉が、枝にきれいに整列していて、そのたたずまいが美しい。春先の新芽や花はやわらかな紅色をしていて、長い冬の終わりを祝うかのように華やいで見える。やがて新緑の淡い緑になるが、天気のいい日に見上げると、ハート型の葉の重なりが見事な緑の濃淡で、きままな散歩を祝福してくれるかのようだ。

車道沿いのカツラ生け垣。それなりに手入れが必要。
 秋になると葉は黄色に染まるが、この時期には葉から独特の香りが生まれる。木の周辺にほのかに甘い香りがただようのである。このキャラメルのような香りは「マルトール」というらしく、お菓子を作る時に使われる香料と同じだそうだ。「香りが出るから=香出ずる」でカツラという名前になったという説もある。
 カツラは樹種としてはかなり古いものらしく、資料によれば「白亜紀から生き延びた樹木」とのことだ。北半球に広く分布した原始的な樹種だが、現在では中国と日本にのみ分布している。北海道では最も樹高が高くなる樹種だという。ただ、どうしてなのか分からないが、ぼくの住む村には天然のカツラが見当たらない。林業の業者に聞いても、「村にはないね」とはっきり言う。もしかしたらかっては分布していたものが、伐採後の天然林では再生できなかったのかも知れない。再生が難しい樹種だとどこかで読んだ記憶もある。
 ぼくがカツラに会ったのは、実は彫刻材としてのカツラ材が最初だ。ずっと昔、田舎暮らし一年目に、飛騨高山で彫刻教室に通ったのだが、その先生が教材としてカツラ材を用意してくれた。よく研いだ彫刻ノミを使うと、カツラ材はすいすいと刻むことができて、とても気持がよかった。彫刻用材には一般にホウとカツラが使われるが、材の品格としては圧倒的にカツラが上だと思う。くすんだ木色のホウに比べてカツラの肌は赤みを帯びて美しく、特に優れたものはわざわざ緋ガツラと呼ばれるぐらいだ。
 飛騨時代の最後の頃には広幅のカツラ材を入手して、喫茶店のイスを作った。背板全面に彫刻をした、いわゆる「ペザント・チェア」だった。カツラの香りは紅葉の葉だけでなく用材にもあり、作業は楽しいものになった。「鎌倉彫」の材料はカツラだし、アイヌの人たちはこれで丸木舟を作ったという。見た目だけでなく、実用としても優れた木なのだと思う。
 そしていま、わが家にはかなりの数のカツラが植えられている。数にすると200本を越える。なぜそんなに沢山カツラがあるかと言うと、庭の生垣にこれを使っているのだ。公道からカエデの並木を通って、車道が庭のエリアに入るあたりから、左右にずっと生垣を作って建物や庭のゾーンを独立させている。最初は広々とした芝生の奥に建物があるように風景を作ったつもりだったが、庭木が道沿いに少ない分、どうもアプローチが殺風景に思える。道の近くに木が少ないのは、冬期間に機械で雪を飛ばすためで、これはやむをえない。
 そこで生垣を考えたのだが、防風林の時と同じく生垣についても知識も手がかりもあまりなく、イチイ以外の生垣見本も近くに見当たらなかった。イチイは樹木としても用材としてもとてもいい木だが、その生垣では成功例をあまり見かけない。印象が暗かったり、すき間が多い生垣だったりするのだ。なにか広葉樹で適当な木がないものかと、思案をしていたら、誰かからカツラの生垣の話を聞いた。よく記憶していないが、どこかの公園で作ったカツラの生垣が見事だった、というような情報だった。そこで、苗木を扱う業者に問い合わせてみると、カツラの苗が入手可能なことが分かった。じゃあやってみよう、といささか短絡的にカツラ生垣に挑戦することにした。

カツラの広幅厚板を使ってカフェの看板を作った。
 生垣初年度はずいぶん前のことだ。苗木をおよそ100本、40センチほどの間隔で道沿いにずらりと並べて植えた。教科書には支えの竹組が必要とあったので、その通りにやったが、後になってこれは不要だと分かった。カツラの苗は防風林のトウヒより更に小さくて、本当に鉛筆のようなものだったが、すごいことに植えた全部が活着して年を越すことができた。特別な配慮したわけではないから、きっと土壌や気候がカツラに合ったのだろう。生育も早くて数年でもうかなり密になり、上部を刈り取る必要がでてきた。生垣用の両手バサミを用意して上端をそろえて切ると、どうしてなかなかの生垣ではないか。植える前はカツラのような大木に育つ木を、せいぜい胸高の生垣にすることにためらいのようなものがあったが、カツラは見事に対応してくれた。その後両手バサミはエンジン式のヘッジ・トリマーになり、いまでは全部足すと100メートルを越える距離の見事なカツラの生垣になっている。
 春が嬉しいカツラの生垣、わが庭の自慢のひとつである。
(注)白州次郎、正子家のこと


グランパ樹木記マーク
#02 (2024.2)
(2)ドイツトウヒ ・・・「防風林」の話
 丘の上に住宅用地ができて、 次に取りかかったのが防風林、屋敷林を作る作業だ。
 防風林を作る、と言葉では簡単にそう言うのだが、実際は木の苗木を植えて、後はひたすらその成長を待つ、気が遠くなるような遠回りの試みだ。植えてから形が見えるのに少なくとも10年、林らしくなるのにおよそ20年はかかろうという、地味で迂遠な作戦である。
 時間がかかるのはやむをえない、この丘に骨を埋めるつもりで取り組めばいい話ではないか。そう豪語してみるのだが、さて具体的に考え始めるとこの防風林作りのノウハウというものがまるで見当たらない。わが村のどこにも人家をとりまく屋敷林のようなものはなく、わずかに畑の境界に並ぶ木の列があるばかりだ。それらも十勝平野にあるような、大規模で見事なカラマツの列ではなく、どちらかというと敷地境界を示す役割ぐらいに見える。実際、入手したばかりのわが農地と隣の農家との境界にはヤチダモの木が一列に植えられていて、それが多少は風を防ぐ役割もしているようである。
 東北地方に行くと、一面に大きく水田地帯が広がっていて、そこかしこに屋敷林に囲まれた農家が点在している。広い農業地帯に点々と住宅が分散しているのを「散村」といい、住宅が集まるのを「集村」と呼ぶのだそうで、屋敷林はこの散村型の地域に見られるようだ。車で走りながら眺めると、杉とおぼしき太い木が整然と並んでいて、その大木が地方の歴史の厚さを表しているようだ。杉の大木、というだけでもう北海道から来た身には別世界だが、その内にある屋敷の見事さにもまた感銘する。そもそも屋根が瓦葺きというだけで異国に思えるのであって、北海道ではどんなに立派な家でも屋根は決まってトタン葺きなのである。
 用事があって宮城の農村地帯を何度かドライブしたが、その時見た屋敷林が当面唯一の手がかりである。もっとも、東北の水田地帯で見る屋敷林はいずれも建物にかなり近接していて、いささか窮屈な印象がある。農家にとっては住まいなどよりも農地をできるだけ広くとるのが当然なのだろう。いずれにしても北海道には杉はないし、林の内側に広い庭があってその一部に建物を作るつもりだから、東北の屋敷林とは少しイメージが違う。
 というようなわずかな見聞を多少の参考にしつつ、さてどう取り組むか、思案どころであった。まずは杉ではないどんな樹種を選ぶのか、というのが問題だ。当然ながら、屋敷林には通年にわたって防風の役割をしてもらわなくてはならない。だから、冬に葉を落とす広葉樹は候補から除くことになる。では針葉樹の中からどれを選ぶか、ということだが、実は北海道ではそれほど選択の余地はない。針葉樹といえばまずエゾマツかトドマツか、普通この2種になる。落葉するカラマツはだめだし、イチイは成長が遅くて選択範囲には入らない。
 エゾかトドか、と思いあぐねていたら、木に詳しいある人から鉄道の防風林にトウヒが使われる、という話を聞いた。密な樹冠を作るし、成長も早いという。おまけに見本がすぐ近くにあるというではないか。話を聞いてすぐに行ったのが隣の余市町から仁木町を通過する函館本線である。線路わきだからそれほど大きな林ではないが、よく見ればそれぞれ端正な姿の針葉樹である。すべての木がそろって同じ大きさで、まるで儀仗兵が整列しているかのようだ。近づくと葉は意外に柔らかく、深い緑色をしている。この鉄道林を見て、ぜひこれと同じトウヒを植えたい、そう思った。
 調べてみると、北海道で植林されるのはドイツトウヒ(ヨーロッパトウヒ)という種類らしく、しかしそもそも北海道のエゾマツやアカエゾマツはマツ科のトウヒ属に分類されていて、兄弟のような関係らしい。ちなみにトドマツは同じマツ科でもモミ属に入るという。トウヒの英語名はスプルスで、この名は本業の木工の仕事で用材として馴染みがある。家具作りに使うスプルスは、北米産のトウヒでシトカスプルスと呼ばれるらしい。
 北海道は木の国だからいわゆる造林の事業も活発で、植林用苗木の生産も大きい規模で行われている。富良野方面の苗木生産会社に電話で問い合わせてみると、ドイツトウヒも扱ってますよ、とのことだった。ついでに値段を聞くと安いのに驚いたが、後で届いた苗木を見てなるほど値段相応かなと思った。

トウヒ植林当日の写真がみつかった。
春の風がとても強い日のことだっ た。
 80年代が後半に入る頃、この頃はわがファームのメンバーが一番多かった頃で、その全員を動員して一大植林イベントをやることになった。人数は集まったが、ぼくを含めて全員が植林初体験だ。素人集団の指導者が大学演習林に勤務するNさんで、彼の指導のもとに作業の開始である。まずは届いた苗木だが、これは束ごと前日からバケツの水に浸けてある。それをばらすと、一本ずつは鉛筆ほどの細さでおよそ頼りない。背丈50センチほどの弱々しい苗だ。これを地面に植えるのだが、指導者は「植林クワ」という特殊なクワを使う。畑で使うクワよりも幅が狭く肉厚のもので、これを地面にえいえいと数回打ちこみ、その土を上に掘りあげて止め、できたすき間に苗の根を入れこむのだ。土の間に斜めに苗を差し込む、という要領である。苗を入れたらクワを抜き、苗を上に引きながら両足で根元を固めるのである。えいえいから始まっておよそ30秒ほどだろうか、あっという間の作業である。このプロのエイエイ植樹は思い切りの力仕事だが、ベテランになると一日五百本も千本も植えるらしい。
 ところが我々はまったくの素人であり、そもそも植林クワも持っていない。見本は示されたが結局普通のスコップで地面に穴を掘り、そこにひとつずつ苗を植えていくしかない。固い地面での穴掘りは重労働で、半日もやるともうへとへとで、大勢いても半分は座りこんでいる有様だ。人海戦術をもって一日で1500本全部を植えるつもりだったが、結局当日と翌日午前までの一日半の作業だった。参加した長男・有巣君、次男・仁木君ともに、寒くて大変だったこの日のことをよく記憶しているという。
 敷地およそ3千坪の南側と西側の二方向に、それぞれ三列の線状に苗を植えた。苗と苗の間隔は両手を広げた距離である。もちろんこれは将来の間伐を前提にしたもので、最終的には三本のうち一本が残るぐらいの数になるはずだ。
 ・・・・・・それからもう40年に近くなる。植えた苗木はすくすく育ち、今では立派なトウヒの防風林が完成している。樹高は20メートルに達し、太いものでは幹の直径が50センチ近い。まずは大木といっていい大きさである。期待どおりトウヒは生育が早く、枝も大きく広がってくれた。防風の効果は抜群で、強風の日でも建物敷地に入れば、ほわりと無風の空気に包まれるのである。
 成長したトウヒはやがて実をつけるようになった。いわゆる「松ぼっくり」、球果だが、日本のマツの実とは違ってかなり縦長の姿をしている。トウヒの「松ぼっくり」は、鳩時計に下がる重しそのままの形だ。というのは当然で、鳩時計(本名はカッコー時計)のもともとの産地はドイツの「黒い森」地方であり、そこはまさにドイツトウヒの森の一帯なのである。
 トウヒの”松ぼっくり”はもちろん子孫を残す種のためのもので、折り重なった襞の間に羽根のついた実が隠されている。そのままにしておけば、やがて風が種を飛ばすことになるが、その前にやって来るのがまずエゾリスだ。夏を過ぎると散歩の度にリスたちが樹上でキキキと鳴き、犬たちが木を見上げて吠える。もう一種、ちょっと嬉しいのが野鳥のイスカだ。オスたちの赤い姿が魅力的だが、なにより、クチバシが松の実をこじあけるように進化していて、上下がたがいちがいになっている、その特殊さが興味深い。
 という風に見事に育ったトウヒの防風林なのだが、いくつか悩みもある。ひとつは、かなり試みたはずの間伐なのだが、どうも不十分だったようで、木と木の間隔が狭く感ずるのである。いまからでも間引きをしようと思うのだが、大木になると倒す時のあたりへの影響も大きくてずっとためらっている。

現在の様子。一番奥がトウヒの防風林、その手前が北米のカエデ林、
建物の手前がカツラの生け垣。
 もうひとつは、庭を囲むトウヒを眺めわたすと、上部で二股になっている木が多い。針葉樹は基本的にまっすぐに主幹が直立するものであって、二股はかなり異常な状態である。ひとまず防風の役には立っているし、木の健康に問題があるとも思えないのだが、やはり気になる。本当かどうかは分からないが、針葉樹が二股になるのはカラスが原因だという。カラスが木の先端に止まると、その体重でそこがポキリと折れる。すると、その下にある二つの枝が左右に伸びてやがて二股の木になるのだそうだ。そういえばカラスはよく木の先端に止まるし、時としてより歓迎すべきタカの類が頂上からあたりを睥睨していることもある。
 というわけで、ちょっとした悩みもあるものの、わが家とわが庭はこのトウヒの防風林、屋敷林に守られて日々の平和を維持しているのである。


グランパ樹木記マーク
#01 (2024.1.12)
 アリス・ファームのホームページをちょっと間借りして、新しい連載を始めさせてもらいます。
 タイトルは上記のように「グランパ樹木記」で、内容もタイトルどおり「グランパが語る樹木の話」ということになります。ぼくがこの40年に植えてきた樹木について、孫たちに語り伝える、ひとまずそういう主旨あるいは建前なわけです。
 いうまでもなく樹木というのはものすごく長いライフサイクルを持つわけで、ぼくがいま植える若木は、孫かその次の代ぐらいになってようやく成木の姿を見ることになります。ぼくは現在の住まいや庭がそのまま200年ぐらいは維持されると期待をしているわけですが、もし希望どおりになったとしたら、そこには巨木、老大木が大きく枝を張っているはずです。でもその頃にはもうそれらがいつ、どんな風に植えられたかを知る人はいないかもしれません。
 フォスターの『ハワーズ・エンド』にはあるニレの木の話が出てきます。州で一番の立派な木で、幹にブタの歯がさし込んであり、その樹皮が歯痛に効くというような話です。今の自分の住まいがハワーズ・エンドのように時を重ねた時に、ブタの歯や歯痛はともかく、そこにある樹木にもそんな小さなストーリーがあったら楽しいだろうな、と思ったりします。
 ストーリーとまでいかないまでも、その木を植えた時のいきさつなどをメモし、ついでにその樹種について知ることをまとめておこうと考えるわけです。最近は調べ物をしてもすぐに忘れてしまうので、忘備録のような役割かもしれません。
 というわけで、相当に私的な樹木記ですし、どこまで「ネタ」が続くか、あるいはぼくの集中力が続くか分かりませんが、ともかくスタートしようと思います。

(1)プロローグ 宅地と庭が決まるまで
 ぼくが住んでいる赤井川村は、北海道の中央部、石狩湾沿いの小樽や余市に隣接する小さな村だ。人口千人の村は、いわゆる「カルデラ地形」の内輪山の中にあり、わが農場はその西端のゆるやかな丘の上にある。
 今から40年ほど前に、人が住まなくなったひとつの農家を譲り受けたのだが、それから隣接農家が離農するたびに徐々に敷地が広がっていった。一帯の農家は「3町3反」という面積が基準らしく、それは多分、国が農民に農地を払い下げた時の規格なのではないかと思う。北海道のスケールからするとやや小さい農地だが、大概は裏にある山林も所有するから実際の面積はその何倍かになる。そういう農家を4件分引き受けたので、わが農場はおよそ30町歩(30h)ぐらいの面積になった。というとずいぶん広いようだが、十勝や道東の広大な農場に比べればささやかなものかもしれない。面積として言えばそういう比較になるのだが、農地の広さは実はその土地の生産性と対比するものなので、ただ数字を比べてもあまり意味がない。
 というわけで広いと言えば広い、そこそこと言えばまあそういうような面積の農場をやっているわけである。農場の仕事についてはひとまずおくとして、話はわが家とわが庭である。
 この農地を手に入れた時は、道路沿いに建つ古い三角屋根の住宅がとても気に入ったのだが、これを残して他の木造倉庫類は全部壊してしまった。廃墟じみた古い倉庫などを取り除いてみると、ここは中々雰囲気のある地形をしていて好感が持てた。その昔リンゴ園だったというゆるやかな南斜面は見晴らしがよくて、村を一望できるし、その向こうには内輪山越しに羊蹄山がどっしりとした姿を見せている。斜面にそって上に登ると、そこはゆったりとした丘のようになっていて、小さな池があり、ずっと昔に入植した人の住まいの痕跡もあった。あちこちにリンゴやナシ、サクランボなどの朽ちかけた古木が立っていて、わずかに果樹園の名残もとどめている。
 離農跡地というのはどこでもかなり乱雑になっているもので、しかしそれは農家が悪戦苦闘した歴史といえる。なので、古ビニールや農薬の容器だのは、ゴミとはいえ必ずしも不快なだけではなくて、むしろ先人の苦労に頭を下げたくもなる。最初の数年は農地の片づけと整理に注力して、しかしこの作業期間はゆっくりと将来の計画を考える時間でもあった。
 丘の上一帯は、直前まではカボチャ畑だった場所だが、高いだけあって一番見晴らしが良かった。雑木林の裏山までも少し距離があって北側からの圧迫感もないし、南には内輪山越しに羊蹄山がよく見える。素晴らしい場所に出会った、と思った。大げさに言うと、一種啓示のようにして、丘はぼくに未来の住まいやそこでの暮らしを約束してくれたのである。
 住宅や庭の場所をできるだけ大きく描いてイメージし、あちこちに目印の杭など打ち、小さな起伏はブルドーザーでならしていった。いわゆる造成工事である。まずは中心部分をおよそ1ヘクタール3000坪ほどと決め、中央部を平坦にした。表土を移動したのでやや赤茶けて情けない光景ではあったが、ひとまず広い宅地ができ上がったのである。
 しかし問題がいくつかあった。そのひとつは公道から遠い、ということだ。北海道の家はどこも道路に密接して建てられるが、それは冬の除雪があるからだ。道路と建物の間に「引き」がないことに内地の人は驚くが、それには理由があるのだ。ところがここは公道から敷地まで100メートルにもなる距離である。冬期間の除雪をどうするのか、という大問題だが、しかしこれは結局、道路を舗装したり重機類を導入する、というような荒技で対応することにした。後になって色々苦労をすることにもなるが、その度に機械が大型になっていった。
 もうひとつの大問題は、見晴らしがいい分むやみと風が強いことだ。南側からカルデラ盆地を渡ってきた風が、もろに吹きつけてくる。穏やかな日もあるが、強風の日などは歩くのもままならないような吹きさらしの丘なのである。冬になるとまるでシベリアの荒野である。
 風対策には機械導入のような速効策は見当たらない。盆地の底から吹き上げてくる風を防ぐには、そこに林を作って木々に風よけをしてもらう、という正攻法しかなさそうだ。造成した敷地をぐるっととり囲むように木を植えて、内部の平穏を作る作戦だろうか。
 そう思ったが、これにもまたいくつか問題がある。ひとつは当然ながら木を植えても、それが育って風よけになるまでにはすごく時間がかかる、ということだ。大きな木を植えればいいのだろうが、まわり一周となるとかなりの数になるはずだし、費用もすごいことになるだろう。山に植林するように、苗木をたくさん植えて成長を待つしかないだろう。
 もうひとつの問題は敷地を林で囲む、ということはこれも当然ながら、眺望をさえぎる、ということだ。せっかく景色のいい丘の上を選んだのに、林で囲ったら風景はなにも見えない。景観か防風か、という選択になってしまうのであった。

丘の上の造成工事から数年後の住宅用地。木はひとつもない。
 そんな問題に直面して、結局やはり防風林を作ることに決めた。当時まだ40歳前後で、時間はいっぱいある気がしたし、家や庭はゆっくりと少しずつ作るものだから、木もそのうち大きくなるだろう、そう楽観的に思うことにした。木も庭も家も、いずれも10年単位で考えればいいのだ。
 敷地からの眺望については、木が育って家や庭から直接見えなくなっても、外に広がる農地側に出ればそれでいいように思える。庭に続く農地のどこかに展望デッキでも作って、天気のいい日にはそこからのんびり羊蹄山を眺めることにしよう。結局防風優先の路線を選んだのだが、今になってみるとこの方針でよかったように思う。
 そんなわけで現在の住まいと庭の用地が定まったのであった。1980年代中頃の話である。
COPYRIGHT 2018 ARISFARM All Rights Reserved.